三鷹

昨日は久々にビールを飲んでしまったのと、少し心の消耗があったせいか、帰ってすぐに寝ついた。かなり早起きした今日は給料仕事もなく休みで、自分の作業をすることに。が、手に付かない。未解決の悩みがあるからだ。そぞろな気持ちで夜には芝居を観に行った。学生来ずっとファンの団体、ほりぶんの新作が三鷹でやっている。三鷹。片道600円以上かかる。かなり遠いが、それでも見に行って良かった。星のホールのようなそれなりに大きな場所でも、やはりいつも通りのなにかがあった。例えばそれは容赦のない怒号、この世のどこにいるんだかわからない女性たちの下品にも上品にも聞こえる会話、常に色が抜け続けている恐らくは73あたりのゼラの前あかり、など... ここでしか見れないものがあってもうそれなしでは生きていけない。ナカゴーも同じく。

10月に入ったがフツーに夏日だった。それでもどこか空気は澄んでいるので、強い日差しも気持ちが良い。

 

・カフェ店員

片足所属しているスペースの、カフェの手伝いをすることがある。開催されるイベントの内容に応じて信じられないほどの忙しさになるのだけど、単に効率化されていないだけで、客数的には学生時代にバイトしていたチェーンのカフェの1/3もいかないと思う。なぜこんなに忙しくしているのか、正直わからないところがある。見栄えのために非効率的なおしゃれ提供シーンを演じているようにしか思えないし、私のような素人によるハンドドリップに値段相応の価値があるとは考えにくい。ボタン押して10秒でホットが出てくるルノアールのコーヒーマシンが恋しいな。

 

・自転車走行

久々に、日が落ちてから自転車に乗った。それで思ったのだけど、私は自転車を漕ぐ速度が少々速すぎるかもしれない。発電式ライトを灯火してすぐに、タイヤの回転数に耐えきれずライト側の摩擦面がかなりの騒音を立てていることに気がついた。それは速度を落とすと治まるのだが、そうすると体感としては相当に遅くなってしまい、逆に足に負荷がかかるような気さえする。しかし、ふと周囲の走行者に目を向けてみれば、車道を行くロードバイクなどを除き、案外みんな速さ的にはそんなものであるらしい。考えてみると普段の私は、他の自転車をどんどん追い抜かしていくような走行をしていた。それでいてこの自転車はいわゆるミニベロで、通常サイズの車輪のものよりも1.5倍ほど多くタイヤを回す必要があるのだけれど、いつもの感覚で漕いだ場合、ペダル回転が隣を走るママチャリの3倍ほどであるらしかった。それでいてそれらのママチャリよりも圧倒的に速度を出している。つまりは、車体のスペックに対して漕ぎすぎということか。少なくとも夜間はあまりにライトがうるさいから、もう少しゆっくりと、車輪の回転数をおさえて走る必要がある。そう急ぐ用事もないわけだし。

教習所の卒業資格は1年が期限だが、実は去年の十月初旬に卒検に受かって以来、学科試験を先延ばしにしていた。そういやもうすぐ1年になるわ、やべえじゃんと思って久々に教本を開き、いつの間にやら日数もせまっていたためとりあえず本日、江東試験場へ行ってきた。そして受かった。ありがとう。

 

民俗学

入門的な本を2冊、図書館で借りてきて読んでいる。双方、タイトルも著者も出版年代も全く異なる本であるが、どうにも内容がリンクする。並行して複数読んでいればよくあることではあるし、そもそも同じ民俗学のジャンルの中なのだから話題もそれなりに被るだろうとは思う。しかし、冒頭で全く違うテーマを掲げて始まった話が、同じ「八瀬」を通過し、その後全く違う着地点へ向かうというのは面白い。「八瀬」が単純にいろいろなところで引き合いに出しやすいメジャーかつ便利な概念なのか、あるいは天が私にそれにまつわる広い知識を授けるよい機会なのか。八瀬童子。京都の郊外にあって、鬼の末裔と自称した人々である。

・秋服

必要なものを買い損ね、不必要なものに1万円出してしまった。計画崩壊。ささいなものでも長持ちするかどうかを重視したかったのだが、予算が尽きているのだから仕方ない、今期の普段着はGUなどで見繕うか。ちなみに買ったのはちょっとミリタリ感ある薄手ジャケット(それでも半額近くになっていた)。くたくたな着心地が最高だが気を抜くと激ダサになる危険な代物。ミリタリーは本当に危ない、下手したらカーキという色すら危ない。

 

・詩

自由になにかを言ってみたかったころ、基本的には自粛していた。自分の言葉選びに自信がなかった。実際、何か発し綴る度に徹底的に失敗していたから、常に怖かった。しかしいま思う。それでもなにかを言っているべきだった。本当はなんだって言ってよかったのだ、この私を通過する限り、全てが少なくとも自分にとってだけは足しになる何かになっていたはずだった、そう言いたくていま、言うことにした。

快晴で散歩日和だが、わざわざ暗い地下室に映画を観に行く、その電車の中。

 

・『ザ・ミソジニー

そして帰路。ラッキーなことに水曜の予定が空いたから少し安く観れた。場内は中年男性ばかりで、映画業界とその周辺を体現していた。新宿駅はこんなに若い人で溢れているのにみんな映画館になんか用はないのだな。始終菓子類を食べるおっさんが斜向かいの席におり、ついてねえなと思ったが、この国はもうすぐ道を歩けばなにかをくちゃくちゃ食っている老人ばかりという社会になるのだし一応は飲食可とされている場所でのことなわけだし許しますかと結論づけてみる。つまり別に許していないし、ついでにおっさんばかりなせいで映画館って基本あんま好きじゃないなという話。

ともかく、不気味な名称の映画。ユリイカの今月号「Jホラーの現在」はまだ読みかけだけれど、なるほどこれはかなり、昨今のアジアホラーとは一緒くたにし難い、Jなホラーだ。良い意味でも悪い意味でもある。所々で友人と解釈が分かれた。そういう余地のある作品に対し昔ほど憧れを抱かなくなったな。感想保留。

 

・集まり

大勢でつるむのが得意じゃない。集まるとやってる感みたいなものを出せるけど、その「感」の中身のほとんどについて、実態のない水増しだろうと思えてしまう。いや、きっとそこにはなにかがあるはずで、それはたぶん人数が集まることでしか得られない類のものなのだろう、そうでなくてはこの人たちが集まってくる訳が成り立たない。そう思い直して価値を見出そうと目を凝らしてみたりもする。でも結局、私には何も映らない。むしろ、もはや大勢で集まっているというだけでその成果の魅力が半減しているようにすら感じる。つるむの、向いていないのだ。

台風が来ている。明日、出勤できるのかどうかわからない。別にどうでもいい。大した仕事ではない。

最近、とくに気になるテーマは二つ。

 

・武蔵野

角川と武蔵野市とのコラボ企画の存在を知った。もう第三回になるらしく、小説投稿サイトである「カクヨム」を通して応募できる。そのサイトを利用しているわけではないから応募作の雰囲気とかはよくわからないのだけど、一般部門の審査員が民俗学者赤坂憲雄である。『境界の発生』とかの、あの赤坂先生である。この人に読んでもらえるのなら、なにか書きたいかもしれない──それでさしあたり、どんなものが書けるかなと仕事帰りに図書館に行って武蔵野についての本をあたってみた。国木田独歩『武蔵野』には一応、目を通したが、あまり個人的な感慨はなく、どちらかというと『更級日記』なんかの解説書を読む方が自分の趣味には合いそうだった。それとやはり宮本常一によるかの土地の人々の営みにまつわる文章。これは単純に知らない知識を得られるから読んでいて面白い。そんなに分厚くはない全集が開架の棚にあって貸出可だった。持ち帰り、今週はこれをちまちま読むことにする。

 

・読書会

読書会にはいろいろと失敗してきた。私は気が短く喧嘩っ早いところがあり、出来た人間たちの寛容な集まりが苦手だ。だから、読書会まがいのことをやろうとすると大抵上手くいかない。その度に結局は人間の相性かなという結論を出しながら、いやまだ諦めるのは早いという気持ちを捨て切れずに来た。

なんせ読書会とは生涯学習である(このまえそう言ってる人がいてそれだねと思った)。『江戸の読書会』では、その行為が昔から重要な教育の方法であったことが述べられているが、ほんとそれ、で、私が読書会に失敗しているというのはつまり私が「まだ」未熟だからなのだ。そう。本当は相性とかの問題ではない。ある意味でそれは修練、本の内容を習得する以上に、他人との接し方について学ぶ行為なわけで、私が他人との読書会を諦め切れないのは、他者とのコミュニケーションの在り方を改善したいと願っているから。自分を変えたい。そういう意味では、どのような本を扱うのでも構わない。